「できるけど、しない」は介護者に優しい理屈。

 でね、こういう場合、「できなかったのではなく、しなかったのでしょう?」という問いを発するならね、そう問う人は何を問うているのか、ということになるじゃないですか。自分だったら「できた」と言いたいわけ?そうじゃなくて「しろとは言わんよ、でも、できないわけじゃなかったじゃないか、しなかったと言わせたい」じゃないのかな。
責める人と責められる人の力関係 - Backlash to 1984


このあたりが、私とid:keya1984さんとの感覚の違いだなと。
他の人はどう感じているのかは知りませんが、私は「できなかったのではなく、しなかった」というのを認めることは、すなわち別に他人を見殺しにしてもいい、という理屈だと私は思ってます。

 論者が言うように、「認知症の親や知的障害の子を介護施設に預けたままにすることは、できることをしようとしなかったのだ。しろとは言わないが、できなかったというのは言い訳だ。しようとしなかったと自覚すべきだ」という主張をも、認めているのだろうか。
「間接殺人派」の自己満足的な誤謬 - Backlash to 1984


上の文脈とは関係ないけど、「認知賞の親や知的障害の子を介護施設に預けたままにする」ことを例にとってみます。
「できなかった」から、介護施設に預けたままにしていい、ということにしてしまうと、他者から「本当はもっとできるでしょう?」と言われかねない。「できなかった」ことを証明する以外、自分が許される方法はないわけですから。結果、ぎりぎりまで自分を追い詰めるほかなくなります。
「本当はできるけど、やらなかった」を許容することによって、他者から責められることを避けられる。


「できないのではなく、しない」というのは、介護者に優しい理屈なんですよ。