「責任」という言葉の使いづらさ。

①自分がしたことと結果との間に因果関係がある
②自分の意思でしたことである
③結果について責めを負うべきである


責任があるかどうか、は上の3つの要素を満たしているかどうか、だと16日の日記に書きました。
そして3つの要素を1つの言葉のうちに込めてしまうと、論点が増え、煩雑になるので、②と③は分けたほうがいいと。

これは、その追記です。



「責任」という言葉には、評価尺度が2つあります。

「責任がある/ない」「責任が重い/軽い」この2つです。

上の3つの要素を見ると、①②については「因果関係がない」「自分の意志ではない」と「ある/ない」で評価することが出来ますが、③に関しては「ある/ない」で評価することは出来ません。
自分の意志で行動し、それによってネガティブな結果がもたらされた場合、責任が「ある/ない」の問題ではなく、負うべき責めが「重い/軽い」の問題になります。
大事なのは、重いか軽いかという尺度ではかるということは、それがゼロにはならないという点です。
我々は負うべき責任が軽すぎるときに、便宜的に「責任がない」と判断しているだけで、理屈上では①②が成立している場合には「責任がない」とは言えません。


今回の責任に関する論争においては、倫理以前に、言葉に対する認識の齟齬があるように思えます。
「負うべき責めがないに等しいから、責任はない」という立場と
「ないに等しくても、ゼロではないのだから、責任はある」という立場です。
前者は③の「負うべき責め」を重視したスタンスで、後者は①の「因果関係がある」ということを重視したスタンスです。
これは、どちらかが間違っているということではなく、「責任」という言葉の使いづらさによるものです。
このような混乱が起きるからこそ、私は「責任の有無」ではかれる“責任”と「責任の重さ」ではかる“責任”とを分ける必要があると考えています。


ま、論争の話題の主流に則した話ではありませんが、ちょっと気になったので、ひとつの意見としてここに書いておきます。

ホームレスの人を助けなかった私 - G★RDIAS
2007-04-18
2007-04-16