「見殺しにすること」の「罪の軽さ」を軽視しないほうがいい。

何度も書いて恐縮ですが、まず「責任」の定義を掲載しておきます。

①自分がしたことと結果との間に因果関係がある

②自分の意思でしたことである

③結果について責めを負うべきである


「募金をしないことによって、我々はアフガニスタンの人を見殺しにしたことになる」という論を、これに沿って検証します。

①自分がしたことと結果との間に因果関係がある → ないとはいえない
②自分の意志でしたことである → そうでないとはいえない
③結果について責めを負うべきである → 負うべきではないとはいえない

上記3点の要件が満たされていますので、我々に責任はあります。
どんなうすい責任であっても、確実に責任はあります。



詐術、あるいは誤りが発生するとすれば、この後です。
本来「責任がある」ことが分かったのなら、次にすべきは、その「責任の重さ」をはかることです。
もし、ごまかしや誤りがあるとするならば、議論を「責任がある」という点でとどめて、「責任の重さ」について触れないところにあります。


詐術は「責任の有無」にはありません。
詐術は「責任の重さ」を伏せている点にあります。


水商売のボッタクリと一緒です。
請求があることが不当なのではなく、請求する金額が不当なのです。



これはuumin3さんの責任でもあります。
「責任が軽すぎて、ないのに等しい」という形而下の評価を「責任がない」という言葉で表現してしまったために、「責任がある」という形而上の考え方と対立してしまいました。
責任のあるなしにこだわったために、自ら詐術にはまりにいったようなものです。
ここは言葉にこだわらず、「責任があるとしたら、どの程度か」と視点を変えればよかった。


(ちなみに詐術、詐術と書いていますが、私は、今回の論争においては、誰かがひとを騙そうとしていたとは思っていません。uumin3さんが「道徳的詐術」という言葉を使われていたので、それに倣って使ってみました。個人的には、「責任」という言葉のもつ扱いづらさがもたらした混乱にすぎないと思っています。)




ここで私の見解を述べます。
「募金箱に200円入れなかったことによって、間接的にアフガニスタンの人を見殺しにした責任」について。


責任はあります。

そしてそれに伴って我々に課せられる義務は
「自分の不作為で助けられなかった人が、世の中には存在するであろうことを、一生に一度くらいは自覚すること」


このくらいの軽い義務が妥当ではないかと思います。
そしてそれは義務教育を終えた人なら、おそらくはもう果たしている義務ではないでしょうか。


「責任がない」でもなく「負うべき義務の量をはっきりさせないまま、責任を負う」でもなく、「負うべき義務の程度を決めた上で責任を負う」のが、最もまっとうな判断ではないかと、私は思っています。



―――


さて、ホームレスの人を助けなかった私 - G★RDIASにおいて、id:kanjinaiさんが「道端のホームレスを見殺しにした」というケースを提示されています。


私は、これに関して「加担したかどうか」という問いそのものが、不適切なのではないかと感じています。
これはYes/Noで答えられることではなく、「どれだけの責任があるか」と、程度を問うべき質問ではないでしょうか。


これをYes/Noで考えると、同じような混乱が起きるだけだと思うのですが。



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