責任の有無を問うのに、法律を持ち出しても仕方がないと思う。

uumin3さんへ

正直に言いますが、暇だったので 笑
こちらに対するお返事も、いつでも結構です。ほんとに。

とりあえず、2点、思ったことを書きました。


その1

 道義的責任と私が言うものも同じ構造です。それはある意味事後的にしか「責任」とは認められないものです。それは「責任を果たした」という社会的な(というより集団的な)枠組みの認証を受けてから初めて責任となる(責任として確定すると言ったほうがいいかも)類のものです。


事後的に「責任」として確定するのではありません。
事後的に、自ら負った負担が、客観的に必要とされる基準を越えていたかどうかが明らかになるだけです。
「客観的に必要とされる基準」というものは、責任の“義務”を果たす前から存在しています。
「社会的な枠組みの認証を受けてから」ということは、事後的に「責任を果たしていない」と認証を受けれない場合がある、ということです。そして「責任を果たしていない」と見なされれば、社会的な制裁が課されます。
これは、「負うべき義務の基準」が客観的に存在することの証拠です。
基準がなければ、どんなに義務を果たしても認められないか、ほとんど何もしなくても認められるかのどちらかになるからです。
ついでに言えば、美人投票でまず分かることは、その票の不均衡から、「美人」かどうかを判断できる客観的な基準が存在する、ということです。



また、法律も“常識的な判断”という明瞭でない基準によって運用されています。
「こういう犯罪をしたらこういう刑罰がある」というのは確定してはいません。
もしそうなら、裁判官は必要ないでしょう?
これは法律に不備があるからではありません。
法律とは、そもそも厳密性を求められるものではなく、極端な不平等がでないようにするためのルールだからです。



法律というルール内ではありますが、法の適用は全て常識的な判断によってなされます。
常識的な判断で、おかしいと感じることは、間違いなく何かの法律に違反しています。
まず「おかしい」があり、それから法律に対応する部分を探し、それを背景にして責任を問うわけです。


確認しておいて欲しいのは、法律は“判断の範囲を制限するためのルール”であって、“全てを判断することができる絶対的なルール”ではない、ということです。
道義的な責任であろうと、法的な責任であろうと、共に“絶対的ではないルール”によって判断されています。



その2

「内輪」に属した者からはローカルルールで当然の責任に見えていたとしても(本人を含めて)、そのルールの適用外の者からはそこに明確な義務があるようには見えないのです。


そもそも「責任」というものは「共同体」に対する義務のことです。


ですので、常に「責任」は内輪の論理に従うことになります。


国と個人との関係においては、罪刑法定主義は重要な原則ですが、他の共同体、すなわち地域・会社・家族・友人という共同体においては、普通は明文化されたルールはありません。その共同体内での“常識”によってルールが決められています。しかし、たとえそのルールが誰の目にも明らかなものではないにしろ、共同体はその内部の者に義務を果たすことを強要することができます。
(まあ、これはトートロジーで、強要できるから「義務」と呼ぶのですが)



「法的責任以外は問えない」とするuumin3さんの考え方は、「国家」以外の共同体を一切認めない、という考え方です。
これは、国家主義ですらありません。
セカイを国に置き換えた、一種の“セカイ系”の考え方ですよ。これは。