コミュニケーションをとった時点で、ひとはその「内輪」にいる。

 お前も同じ「内輪」だろうという前提の問いかけ(道義的責任を問う声)に対しては、「違います」(私はあなたの「内輪」ではない)という拒絶の言葉は常にあり得ると思わなければならないでしょう。

迷惑な話に聞こえるでしょうが、あなたが望むと望まざるとにかかわらず、「世間」のほうが「内輪」であると認めれば、あなたは「内輪」に入れられます。
「内輪だろう」という問いかけをされた時点で、その世間において、あなたは「内輪」にいます。

「外部にいる」ということは、「内輪だろう?」という問いかけすら発生しない、ということです。


下の質問をする前に、覚えておいてもらいたいのは1点。
内輪の論理においては「最初から外部であった」ことにはならない。



さて、本題です。
法的責任というのも、内輪の論理に相当します。
たとえ殺人を犯しても、法の目の届かない「外部」にいってしまえば良いからです。

そうでしょう?