「募金をしなかったことによって、アフガニスタンの人を見殺しにした」責任について

ここまでのところで、uumin3さんの理論について、おおまかに把握はできたと思うので、一旦整理してみます。

・責任には、法的責任と道義的責任がある。
・道義的責任とは、法的責任を越えた部分のことで、個人が主観的に判断する責任のことである。
・「アフガニスタンの人を見殺しにした」責任は法的責任を問われるものではない。
・また、道義的責任も、主観的に判断する責任であるので、誰にとっても必ずあるとは言えない。


結論:「アフガニスタンの人を見殺しにした」責任は、あるとは言えない。


これは、「責任」とは「負担を要求するものである」と定義した場合、論理的には一応の整合性がとれる理屈です。
この定義に沿って、上記の理屈を書き換えてみます。

・「負担を要求されるもの」には、法的に「負担を要求されれるもの」と道義的に「負担を要求されるもの」がある。
・道義的な負担とは、法的な負担を越えた部分のことで、個人が主観的に判断する負担のことである。
・「アフガニスタンの人を見殺しにした」というのは法的に負担を問われるものではない。
・また、道義的な負担も、主観的に判断するものであるので、負担を負わなければいけないとは言えない。


結論:「アフガニスタンの人を見殺しにした」負担は、負わなければいけないものであるとは言えない。


この論理で問題となるのは2つ。
1つめは「なぜ法的責任だけを問えるのか?」という肝心な部分について「法律は、道義的責任よりも信用がおけると感じるから」と主観に依っている点にあります。この主観に共感できる人に対しては、成立する論理ですが、そうでない人に対しては成立しないところが難点です。
これはuumin3さんの論理の脆弱性によるものですが、もう1つは、この「責任があるかどうか」の論争に加わった人全てに関係する問題です。
それは「責任」の定義についての問題です。



さて、「責任」には ①因果 ②主体性 ③義務 の3つの要素があります。

「責任がない」派のあやまち


「責任がない」とする考え方は ③義務 を優先し、
「負担を要求されるものこそが、責任である」という考え方です。
これが間違っているのは、因果が逆転している点。
uumin3さんが言うように、トートロジー的に成立させている点にあります。

これでは死刑にされた人は、冤罪であっても、責任があったことにされてしまいますし、責任を逃れてしまえば、最初から責任がなかったことになってしまいます。
これは、定義に不備があるためです。

「責任がある」派のあやまち


「責任がある」とする考え方は ①因果 ②主体性 を優先します。
「自ら主体的に選び取った行動であれば、結果に対しては責任がある」
これはひとつの見識であり、疑いようがありません。
問題は、因果と主体性を優先するあまり、③義務 の量の算定をおろそかにした点にあります。
「責任がある」派は「責任がある」と指摘されること自体が、「責め」であるという認識が欠けていました。
因果と主体性がある、という事実だけでは「責任を指摘される」という義務を負うべきかどうかは判断できません。

まとめ

以前にも書きましたが、この論争に決着をつける手段は1つしかありません。
「責任がない」派が「責任がない」という言葉にとらわれず、責任が発生することを認め、それが「お前には責任がある」と他人から指摘されるレベルの責任であるのかどうかを、見積もることです。
そうすることで、論点を全て「他者から指摘されるレベルの責任かどうか」の1点に絞ることができます。
この点は、その人がどれだけナイーヴか、という個々人の感性によるものにはなりますが。

面白いと思った点

「法的責任以外は、他人に問えない」というuumin3さんの理屈は、その論でいけば「法的責任以外は、他人に問えない」という認識を持つべきだと他人に要求できない、という意味で自己矛盾か、“ひとりごと化”していると言えます。



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論点整理2 - Double Line
2007-04-23
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20070421/1177181170
道徳的詐術とは何か - モジモジ君のブログ。みたいな。
「加担する」とは何をすることなのか - G★RDIAS